スタダイスの消防署

マラッカ広場からセントポール教会に向かい丘を上っていく。
といってもそれほどの距離ではない。
広場を出て左手にはスタダイスの敷地が続いており、古い消防車が展示されている。
スタダイスの敷地内には、かつて消防署が併設されていたそうだ。
スタダイスと同様に赤レンガの外観を持ち、オランダの建築様式が反映されている。
建物のデザインは、周囲の建物と調和しておりとても美しい。
当時の消防署は、マラッカ市内の火災防止と消火活動の拠点として機能していた。
市内の木造建築が多かったため、火災は重大なリスクとされていた。
そのため消防署の存在は重要だったそうだ。

セントポール教会

階段を上り、少し行くとセントポール教会(St. Paul’s Church)に到着。
セントポールの丘に位置し、東南アジアで最も古いキリスト教会の一つだ。
1521年にポルトガル人の貿易商人デュアルテ・コエリョによって建てられた。
フランシスコ・ザビエルはこの教会を訪れ、一時的な埋葬地としても使われた。
1641年にオランダがマラッカを征服すると、オランダ改革派教会として使用され、「セントポール教会」と改名された。
この時期には、建物の修復と再構築が行われ、現在見られる建築様式の多くがこの時代に由来する。
1824年にイギリスがマラッカを支配すると、教会は軍の弾薬庫として使用された。
そのため、現在の教会は一部が崩壊し、廃墟の状態で残っている。
教会の内部には、多くの古い墓石が並べられている。
これらはオランダ時代やイギリス時代のもので、多くの歴史的な碑文が刻まれている。
丘からは、マラッカ市内とマラッカ海峡を見渡す素晴らしい景色が広がっている。
マラッカ海峡を行き来する船やマラッカタワーを一望する景色をバックに、多くの観光客が写真を撮っていた。

フランシスコ・ザビエル像

フランシスコ・ザビエルは、日本にキリスト教を伝えた人物として知られている。
スペインで生まれたカトリックの司祭で、イエズス会創設メンバーの一人だ。
インド、日本、マラッカなどを訪れ宣教活動を行い、多くの人々にキリスト教を広めた。
1545年に初めてマラッカを訪れ、その後数年間にわたり何度も訪問した。
その間、セントポール教会を拠点に、周辺地域での宣教活動を行った。
1552年に中国の上川島で亡くなった後、暫定的に上川島に埋葬された。
後に遺体は掘り起こされ、インドのゴアに移される。
その途中、一時的にセントポール教会に埋葬された。
ザビエルの遺体は、埋葬後も腐敗しない奇跡的な状態で発見されたと伝えられている。
また、遺体がゴアに移送される際、彼の右腕が切断された。
この右腕は、彼が多くの洗礼を授けた手として特別な意味を持っていた。
切断された右腕は、ローマのイエズス会本部に送られ、遺物として大切に保存された。
この像の右腕が欠けているのは、遺体が埋葬された際に、右腕が切断されたことを象徴している。
やはり象徴的な像だからだろう、多くの観光客が並んで写真を撮っていた。
サンチャゴ砦(A Famosa)

セントポール教会から丘を降りてサンチャゴ砦に向かう。
サンチャゴ砦は、1511年にポルトガルがマラッカを征服した際に建設された、東南アジアで最も古いヨーロッパの建築物の一つだ。
植民地支配の象徴であり、マラッカ海峡を通る貿易ルートの監視と防衛を目的としていた。
1641年、オランダがポルトガルからマラッカを奪取すると、要塞はオランダの支配下に置かれ、一部が改築された。
1795年にはイギリスがマラッカを支配し、1807年に要塞の大部分を破壊した。
現在、サンチャゴ砦の一部であるポルタ・デ・サンチャゴ(Porta de Santiago)という門だけが保存されており、観光名所となっている。

Restoran Nyonya Cantik で夕食

歩き回ってお腹も空いてきたところで、夕食に向かう。
ワゴン車に乗り込み移動すると、すぐに目的のレストラン「Restoran Nyonya Cantik」に到着した。
その名の通りニョニャ料理(またはプラナカン料理)のお店だ。
ニョニャ料理(またはプラナカン料理)はマレーシアやシンガポール、インドネシアなどの地域で発展した、独自の料理スタイルだ。
プラナカン文化は、中国から移住してきた人々と現地のマレー人との混血文化で、ニョニャ料理はその文化を象徴するものの一つだという。
ニョニャ料理は、豊富な香辛料やココナッツミルクを使用した、色鮮やかで豊かな風味が特徴だ。
甘味と酸味のバランスが特徴で、どれを食べても美味しくて、お腹一杯になるまでいただいた。


